日々の"ほっこり" おかぴごと日記

人間らしく。愛と笑顔の明るい心で歩こう。

◎真面目に遊べ。

 

 

 

 

それは何事もチャンスである。

 

 

 

今こうしてコロナというウイルスが流行り、

自粛というものを経験して

 

自分のことを考えられる

余裕と時間があることを

とってもありがたく、感じる。

 

 

 

わたしはどちらかといえば

これくらい自分の時間がある方が好きだ。

慌ただしくなく

振り回されないこの状況が嫌いではない。

 

改めてそれに気付いたので、

今後の時間の取り方、

「わたし時間」の過ごし方を

見直すきっかけになっている。

 

 

 

 

今、だいたい同じように

だいたい同じ境遇にいると感じるからだろう。

 

 

 

それがいつもあったんだけど、

いつもそうだったんだけど、

見えなかったものが

今明るみになっているのだろう。

 

 

 

ある人はそれが見えただけで

あたふたとする。

ある人はそれが見えなくても

いつもそこにあることを知っていたので

いつもどおり落ち着いている。

 

 

 

その違いなだけだ。

ありふれているから、

見えなくなるだけである。

 

 

なくなったと思って

焦るだけである。

 

 

 

なくなったわけでも、

ないものが突然現れた訳でもない

 

 

苦しみも、生き辛さも

幸せも、楽しさも

いつも同じだけ、自分のそばにある。

 

 

 

苦しさの中に楽しさが

楽しさのなかにも苦しさが

あるものだ。

 

 

 

 

 

今こうして、自分の時間を過ごしていると、

やりたいことが浮かぶ

自分の好きなことをできる

好きなことを実行していくために考える時間ができる

 

 

それが今

とても嬉しい。

 

 

 

相手の時間にばかり合わせず

もっと余裕を持っていいのだ。

 

 

 

できればもっと家にいたいし、

好きなことやっていたいから、

どうやったら

生活の中にこの時間を多く入れていけるかを

考える。

 

 

 

わたしがやってきた仕事というのは

一見、『誰かのためにやらなければいけない』

と、思われる仕事だが、

 

現場で働いている身としては

そんな義務感を感じたことがない。

むしろ、

その考え方にシフトチェンジした途端

多分すぐにストレスがたまる。

 

 

だから、

やりたくないことは、やらない。

今自分が無理してやらなければいけないことは

まわりに頼む。

 

 

 

 

保育者だから、支援員だから

こどもや、利用者さんを頼ってはいけない

なんてことはない。

今言われた指示をすぐに聞かなきゃいけない

なんてことはない。

(いや、これはわたしがただ単にしたくないだけ)

 

 

 

でもやってきた中で、

何が重要かて。

 

 

 

ただその場にいればいいのだ。

 

ただその場でひとりひとりの個性を

見守って、否定せず、

一緒にいればいいのだ。

 

 

 

優しくあろう、(世間的に)『いい人であろう』

としなくていい。

そうしようとするから

上っ面のそういうものを

教えようとするのだろう。

 

嫌ならそれは嫌だと言えばいいのだ。

何事も自分でやってみる環境を用意すればいいのだ。

 

なぜか生活の中にそれがないから

そういう場所が必要とされているだけである。

 

自分でやってみて、自信をもって育っていく

っていうそういう経験が平等にできるように

そういう場所があるだけである。

 

 

 

 

ただただ、私は人間観察が好きなだけだ。

遊ぶことが、表現が好きなのだ。

歌って踊ることが好きなのだ。

嫌なことは嫌なのだ。

 

 

 

 

とことん何かに熱中できることを

探せる環境だけあればいいのだ。

 

 

 

そこにある環境の中で

なにかしら楽しさを見つける力を

蓄えていけばいいのだ。

 

 

 

きっと、

こどもたちも、今一緒にいる利用者さんも

その辺の大人より、

本心が見えないロボットみたいな大人より、

 

 

 

 

ずっとずっとずっと面白い

 

 

 

人間らしい。

魅力的なのだ。

だから好きなのだ。

 

 

好きな人と一緒にいたいのだ。

ただそれだけ。

 

 

ただ自分がその人たちを見ていたいのだ。

そしてただ一緒に時間を楽しみたい。

 

 

 

 

なぜかある一定の大人は

やれ、社会の為には

こーしろ

あーしろ

こうでなきゃいけない

ここを変えないといけない

というが、

 

 

わたしは、考えた、閃いた。

 

 

楽しいには勝てない。

そして、

楽しいに

素直に生きている人が

多い世の中のが

楽しい。

 

 

 

 

怒りたいなら怒ればいいのだ。

あーあの人怒ってんのやな。

ってまわりもわかればいいやないの。

 

怒ってるってことはなにかが嫌なんだ。

なんでそれが嫌なんだ?

 

 

相手との価値観の違いかも。

なにかと比較しての自己否定かも。

大概そこだ。

でも怒りを発散させたことで気分が落ち着いたのかも。

 

 

それを、

怒らないようにさせる(まわりがそれに合わせる)

というのは、外側の人間がすることじゃない。

何度でもそう経験して

何かが変わるのか変わらないのか

どういう気持ちだったのかを

自分でどう処理するのか考えられるように、

 

いくつかの提案をするだけだ。

感情の根本を明確にするだけだ。

 

 

 

結局、楽しく生きている人の都合のいいように

まわってるのかなって思うんだ

だったら

自分が自分で楽しく生きるしかないじゃない。

 

誰も機嫌なんて

とってくれないよ。

 

気付いてないだけで

ちゃんと自分で機嫌とってるんだよ。

 

機嫌のとり方がわからないなら

知らないことを知ってみたらいいよ。

新しいことを知ってみたらいいよ。

音楽でもアニメでも、映画でも、本でも。

 

 

 

 

誰かの顔色見るのが

楽しければそうしたら。

 

まわりの流行についていきたいなら

そうしたらいいよ。

 

 

 

 

そして自分のやりたいことをやればいい

一緒に楽しめることを考えればいい。

一緒に笑顔になれることを考えればいい。

創り出せばいいのだ。

 

 

 

だから

こういう仕事に興味があるのだろう。

 

 

 

何が必要かずっと考えていた。

 

 

 

わかった気がする。

 

 

 

 

存分に、遊ぶことが必要だ。

 

 

 

気の向くまま、

自分の興味のあることで遊ぶことが必要だ。

楽しむことが必要だ。

わたしの時間を

楽しくする工夫をすることが重要だと。

 

 

 

 

その時間を多くしていくことで

さらに深掘りをしていくことで

多分これからは生きていける。

 

 

 

 

 

誰でもそうして生きていけるのかもしれない。

 

 

 

そうしなくても生きてはいけるだろう。

どっちを選ぶかって話。

 

 

 

やらされてる

と思った時点で

わたしは一瞬にして

やさぐれる傾向にあるらしい。

自分の反抗心にとっても素直です。

だからやらないって言っていいと許す。

やるなら自分のやり方に変えてしまえばいい。

暇だったら、やれるなら、やればいい。

 

だからこれからも素直でいおっと。

 

 

 

 

 

自分が自由だと

まわりの自由さも

素直に受けとれる気がするよ。

 

 

 

 

もーさ、

ほんと、

なんでもいいよ。

 

 

 

すきなものはすきって言うの。

 

 

 

 

 

大事だと思うよ、

 

だから遊びこむっていうのが大切なんだろうね。

 

 

遊びを舐めちゃあ行けないよ。

 

 

わたしもそんなに遊びが得意じゃないけど。

とりあえず好きなことからとことんやっていく。

楽しい感覚を頼りにやっていく。

 

 

 

真面目と遊びは反対語じゃないよ。

 

真面目に遊ぶんだ。

 

 

 

 

今日も、一歩。

 

 

 

 

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