少しの見え方の"ねじれ"は日々起こるんだろうな。
ただ心がざわざわする
ということに、違った理由付けをしていたり
ただ見えているもののせいにしてみたり
深掘りすれば
それも全て自分の中にあるのだろう。
それのざわざわを選択している、ということだろう。
そう思うと日々ちゃんと自分で選択をしているんだなと、自分が愛おしくなる。
私は私で良い◎
あの人はあの人で良い◎
という基準と心の余裕。それがフラット。
比べている視点が多くなっている時には
大抵自分の見ている物事の基準軸が
1から10までの一本のみでしかない。
1から10までの一歩の選択が全てになっている。
広く見ればそれは1本ではなく
基準軸がなんて物事によって
何本もあるものなのだ。
そういう見方をしている自分に気付くこと。
そこに思考を持っていかれている自分の"ねじれ"に気付くことだ。
生活、自分の人生を軸にした中での
楽しみだったり、
充実感をある事だったり、
心の余裕だったり。
それをただただ観察していくことだ。
きっとそこに糸口がある。
6月の後半から7月の中旬まで
何かに飲まれていた感覚は、理性がない状態は
今ひとつひとつ目を向けている事に
繋げるためのきっかけだったのかもしれない。
今に集中。
観察だ。
今日も、一歩。