日々の"ほっこり" おかぴごと日記

人間らしく。愛と笑顔の明るい心で歩こう。

◎お節介か思いやり。

 

 

小さな頭の中で

大きく考えてることは

側からみればすごく小さなことかもしれない

でもその人はすごく大きなこととして

捉えているのかもしれない

 

 

どのくらいの大きさで

捉えているかは 

その人にしかわからない

言葉で説明したとしても

すべてが伝わるわけではなくて

すべてのカタチが見えるわけじゃない

 

 

わからない部分はあるもの

見えない部分はあるもの

 

誰かに全部わかってもらおうとするのは

難しいのかもしれない 

それだけ自分のことをわかっていないと

伝わらないものなのかもしれない

 

結局、

自分しかそれに気付いてあげられない

自分にはそれが見えるかもしれない

自分だけが分かってあげられるのかもしれない

 

 

"誰か"に求めていても 

その人も自分のことに気付くのに精一杯だから

一時的に寄り添ってくれること

一時的に補い合えること

一時的に救われることはあるかもしれない

でも、やっぱり、

自分で気付くしかない 

自分で見つけるしかない

自分の言葉で理解するしかない

自分の力で超えていくしかない

のだろうなと思う

 

 

 

 

 

 

 

"自己肯定感が低い"という言葉に

違和感を感じている。

 

 

 

 

 

 

 

そう言うことで言い訳にしている感じがする。

 

自己肯定感が高いとか低いとか 

言ってる意味がちょっとわからない。

 

自己肯定感は誰にでもあるものだと思う。

 

0.1歳で"自己肯定感が低い"子はいないから。

みんな自分のことで精一杯だし

自分のことを本能的に大切にしてる。

 

生まれてきた時

みんな"自己を肯定する力"を持ってきたはず。

 

 

"生きてるだけで価値がある"から

生まれてきた。と思う。

 

 

"低い"って決めてしまうのは、

"誰か"のせいにしたいからではないか。

"誰か"のせいで自分は自己肯定感が低くなった

と言いたいからではないか。

 

本当に、"誰か"が原因だろうか。

"誰か"の言葉や態度、行動によって

自分の心が傷ついたことは事実かもしれない。

 

 

でも、

"自己肯定感が低い"と感じているのは  

感じる癖をつけたのは

"自分"ではないか。

 

 

何をやってもそう受け取ってしまうのは

その考え方の癖に原因があるのでは。

 

頑張ってるのに

自分を責める人。

頑張ってるのに

自信が持てない人。

 

 

頑張ってなくても 

生きてるだけで丸儲けなんですけどね。

本当にそうだと思うんだけども。

 

 

 

がっちがちに

責めたがりの人はいるわけで。

誰でもなく自分で自分を責めたがる

どMの人がいるわけで。

 

 

 

自分がそうしてるのに

人に賞賛を求めるんだ。

人が厳しいことを言うと落ち込むんだ。

 

自分がそうしてるだけなのに。

 

 

 

 

"自分はこうではいけない"と考え方の癖をつけたのは 

"自分"でしょう。

 

 

 

"完璧主義"なのかもしれない

完璧になりたいのかもしれない  

はて、では、

"完璧な人"とはどんな人でしょう

それがその人のなりたい姿なのかもしれない

 

ではその人になるように 

できることをしたらいいんじゃないか。

 

大きなことをやろうとするから 

大きな変化を一気にもとめるから

 

少しうまくいかないと

落胆するのでしょう。

 

誰が無理をしろと言ったのよ。

今日できる昨日とは違う新しいことを

一つでもしたらそれが自信になるんだってさ。

 

子どもだって

昨日までできなかったことが

一つできるようになったら

それが自信に繋がるんだ。

 

大人も子どもも関係なくて

ちょっとの進歩でいいんじゃないかな。

変わらない日もあっていいんじゃないかな。

 

 

でもさ、誰かのせいにしてたら

一向に進まない。

 

 

いつまでその癖をそのままにするのか。

いつまで同じとこをぐるぐるしているのか。

"自己肯定感が低い"と言い訳にするのか。

 

 

 

自信と自己肯定感は似ているけども

違う気がする。

 

 

ポジティブとかネガティブとか。

どっちでもいいんだけど。

 

根が明るいか、根が暗いかの違いじゃないか。

 

明るくても、暗くても、

どっちでもいいんじゃないか。

 

それぞれ違うものだし、

違うから物事の見方は色々面白くなってくるのでは。

だから表現がそれぞれ違ってくるのでは。

 

 

 

ただ表に出す時、

正のエネルギーとして出すのか

負のエネルギーとして出すのか

工夫できたら一つまた大人なのでしょう。

 

 

 

自分が取り込んだ時に

どう捉えるのか

それを出す時に

どう変換するのか

 

取り込んだものをそのまま吐き出すのは 

面白くない。

ただの駄々っ子。

 

外に出すのであれば

受け取り側のことも考えられると

いいのかも。

 

むしろ自分に目が向かない人は

周りの人のことを考えた方が進みやすいのかも。

それだけ精神年齢がもう高いということなのかも。

 

私はまだまだ自分にしか目が向かない。 

だからそこから素直に行動した方が進みやすい。

 

 

でもそれも多分、人それぞれ。

 

 

 

だけども、

ずっと同じとこをぐるぐるしてるのなら

手放してしまえばいいのかも。

全ては持っていけないから。

 

 

 

 

無理する必要はなくて

無理をすることが成長ではない気がしてて

 

無理をすると自分勝手になるから

余裕がなくなるから

相手のためにも、自分のためにも

やっぱり心に余裕も持つことは必要で

 

持てないのなら何かを手放す

自分を大切にできないのなら手放してしまえばいい

誰かに任せてしまえばいい

抱えられる分だけしっかり抱えたらいい

 

 

余裕が作れないのは

自分が作ってないから

作ろうと工夫してないから

何かのせいにしないこと

 

難しくなくて

一つでも変えたらいい

全部一気に変えられないのだから

 

 

 

表面を磨くことが、

技術ばかりを磨くことが、

成長なのだろうか

 


まずは見えない部分からなのではないか

心の持ち方、

自分でマイナスをマイナスじゃなくする力

受け取り方、見方、

マイナスをマイナスのまま放つのではなく

周りにどうせだったらプラスなエネルギーとして発すること

 

 

両方一緒にできたらいいのか

できたらすればいいし

できないならひとつひとつすればいい

 

 

 

 

何者かに

ならなくてもいい

 

"誰か"になろうとしなくても 

いいんじゃないか、な。

 

 

動いていくことで

見えるのかもしれない

 


やってみることで

わかるのかもしれない

 


根本に気付かないと

多分なにも解決しない

 

 

 

でもね、自己肯定感を理由にするのは

自分に失礼だ。

 

ちゃんと肯定する力があるんだから

ちゃんと持ってるんだなって 言ってあげてよ。

自分を大切にしてあげてよ。

 

 

 

 

という、お節介でした。

 

 

 

 

わからない部分がある。

その人はどんな景色を見てるのか。 

なぜそう捉えるのか。

私にはわからない。

でもその人がそれを吐き出したことによって

何かこちらにモヤモヤしたものが残ったので

取って貼り付けた言葉を並べてる自分が嫌になったので、

自分の中で消化して

少しお節介な言葉を綴ってしまったかもしれません。

 

 

でも多分モヤモヤしたということは

その中に私が受け止めるべきことが

入っていたのではないかなと思います。

 

 

人のことを見ているようで

自分しかまだまだ見えていないのです。

 

でもそれでも

まだまだ途中なので、

こうやって残すことも

一つの考えとして

それもそれでいいかなと思います。 

 

 

 

結果的に、どんな人を見ていても

自分ごととして

考える機会をいただけるので、

ありがたいなと思います。 はは。 

 

 

 

どんな人も必要だなあ。と感じます。

 

 

 

ひとつ スッキリしました。

 

 

 

 

 

今日も、一歩。

 

 

 

 

 

 

f:id:happyokapi:20190210015344j:image