日々の"ほっこり" おかぴごと日記

人間らしく。愛と笑顔の明るい心で歩こう。

◎素直の真ん中。

 

 

 

習字の先生と話す時間がある。

 

 

わたしと同い年の沢山いた生徒は

もういつのまにかみんな成長していくにつれ

辞めてしまって、

 

今は高校生が沢山いる時間帯に大人数人、

一緒に

お稽古を受けている。

 

 

 

みんなが帰った後の時間、

仕事は最近どう?

という

きっかけから、

 

 

教えること、育っていくこと

 

 

その立場からの

自身の成長のことなど、

色々話をする。

 

 

深く共感できる部分があって

 

少しうるうるとしていた今日この頃。

 

 

 

習字を習って、

もうすぐ20年目になる。

 

いい先生に出会えたなと思う。

 

 

 

赤い筆で「こうした方がいいかな」

と直しをもらう

いつもの光景を見ていて、ふと思った。

 

 

習字だけじゃない、

いろんな場所において、

 

 

大人になって、

直しを指摘してもらうことって

減ってきたなと、感じた。

 

 

 

こどもの時は

どこに行っても

指摘され、

間違いは間違いと教えられ、

 

 

それは常のことなので

 

いつのまにか

その言われている本質よりも

その人の言い方であったり、

表情だったり、言葉だったり、

そういうものにばかり気を取られて、

 

とりあえず、怒られないように

とりあえず、注意されないように

 

コソコソとしてきたこともあって、

気をつけて、気をつけて、

何か本質よりも、

 

 

ただ怒られない、注意されなければいい

バレなければいい

 

人の機嫌をとっておけばいい

 

 

 

 

そういう道を選んできたな、わたし。

と、気付いた。

 

 

だからあんまり報告しない癖が

ついているのだろう。

 

あんまりそのままを出さない癖が

ついているのだろう。

 

あれもこれも

感情をそのまま伝えない癖がついているのだろう。

 

都合のいいことしか言わないのだろう。

 

受け取ってもらえないだろうということは

話し合いをしない癖がついたのだろう。

 

 

 

それだけ、

人の顔を伺って

見てきたからなのかもしれないけど、

それだけ、

少しの直された経験で

ビビってしまっただけかもしれないけど、

 

それだけのことで、

怖がってしまって、

心に穴があいてしまったのかもしれないけど。

 

それによって、すこし歪んでいるのだろう。

 

 

 

わからないことも、

知らないことも、

そこでちゃんと素直に出して、

素直に受け取ることも

大切なことだったんだなと気付く。

 

 

 

気付けたことで

さらに飾らなくても大丈夫だという

自分は自分で大丈夫だという

自信につながっているような、気がする。

 

 

 

今までのわたしは、

真っ直ぐ伸びてはいないな。

どこかずっと、ひねくれていた気がする。

 

 

 

でもそれも、全部ありだと思う。

今、気付けたことで

自分の真ん中がさらに幅が広い中の真ん中に

少し動いた気がする。

 

 

ちゃんと自分であいた穴を

塞いでいけている気がする。

 

 

最近やっと、真っ直ぐ伸びるっていう

素敵さや、潔さの魅力を

わかってきた気がするな。

 

 

 

 

 

 

わからないことをわからないと

気付いて、

伝えられるのは

素晴らしいなと思う。

 

 

 

困難だと思っていることを

困難だと自覚するのは

中々簡単じゃないのかもしれない。

 

 

 

だから苦しいのかもしれない。

 

でも人の苦しさって

だから

すぐには気付けないのかもしれない。

 

 

 

自分の苦しさにだって

すぐに気付かないんだもの。

 

 

 

反発したり

嫌なことを言ったり

傷つけることをしたり

 

 

 

 

それは

何か、そうしてしまう根本的な

困りごとの

何かに

自分も気付いていないからではないだろうか。

 

 

まわりも気付いていないからではないだろうか。

 

 

その人の問題だけではないのではないだろうか。

 

 

 

 

自覚がないことを

まわりが気付くことは

なかなか難しいのだろう。

でも、

心から共感できれば気付けるのかもしれない。

 

そこでその苦しさに寄り添うということが

必要なのかもしれない。

 

それは同じように苦しくなるのではなく

その苦しさの原因に気付くことをしていくこと。

 

 

 

どうしても

起こったこと、現象、結果に、

 

善悪

 

で判断してしまうのだろう。

 

 

事柄だけ見ればそうなのかもしれないけども

そうなるには

必ず原因があって

それは一つだけではないのかもしれない。

 

 

 

苦しい、わからない、もどかしい

だから

そうなった結果に過ぎないのかもしれない。

 

 

 

わたしは、どこまで

その苦しさに気付けてるのだろう。

 

 

多分ほんとに少ししか

気付けていないんだろうなと思う。

 

 

 

言葉のやりとりの中にも

重なってない部分は沢山あるのに。

 

日常会話の中でさえもそれはあるのだから、

 

理解が難しい、遠回しな言葉で

会話していることを

自分も自覚をしなきゃいけない。

 

 

人によって

通じやすい言葉、感覚の近い言葉を探っていくことが

共感に繋がっていく気がする。

 

 

 

 

そうしていくためには

自分の変化に気付くことも大切で

まわりの変化に気付くことも大切で

目の前の人の変化に気付くことも大切で

 

 

 

そのためには

やっぱり

飾らずに

そのままの素直なものを

受け取らなければ

見えてこないのかもしれない。

 

 

 

言葉ではなくて

素直に物事を見て、受け取ることから

しないと

なにも見えてこないのかもしれない。

 

 

 

誰かの話ではなく

困っているその人の話によく耳を傾けないと

いけないのかもしれない。

 

 

 

 

相手だけが素直でも素直に受け取れない。

受け取る自分も素直に

いかにそのままを

受け取る努力をしていくか。

 

 

 

変えられないものを変えようとせず

変わっていくものをただ変わっていくままに見ること。

 

 

 

素直の真ん中。

 

 

 

 

人と関わる仕事は、

そういう楽しさを

ひとつひとつ丁寧に知っていける

学びをもらっている気がする。

 

 

教えているようで、

教えてもらっているなあ。

 

 

 

自分も日々

学ばせてもらっている

だから日々固まらず、

柔軟に形を変えていきたいものだ。

 

 

わたしは、常に、

いい仕事をさせてもらってる

のかもしれないな。

 

 

ありがたいですね。

 

 

 

 

まわりの人も、なんだか恵まれていて

ありがたいです。

 

 

 

 

 

苦しみの根っこを見てみましょうね。

大丈夫。

 

 

 

 

今日も、一歩。

 

 

 

 

 

 

 

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