日々の"ほっこり" おかぴごと日記

人間らしく。愛と笑顔の明るい心で歩こう。

◎さぴえんす。

 

ほんとはなにもないのに

そこになにかあるように考えられる

捉えられる人間は面白い。

 


おもしろいなー。とかなんとか思ってたらなんか

自分なりの解釈、沢山出てきたから、

折角だから載せておく。

 

 

 

なにもないものを

そこにあるかのように

想像できる生き物

新しく創造できる生き物が人間なのか。

 

だとするならば

惜しみなく使えばいいではないか

創造する力を。考えることを。

選ぶことを。

 

 

 

全て創り出せるのに

誰かがつくったそれに寄り掛かって

そのまま身を預けて

個性は何かと問いながら

これが個性だと言い張りたがる 

 


言い張る必要などあるのか

個性を個性と主張する必要があるのか

 


違うものなのに

同じものなどないのに

自ら同じと括りたがるのに

自ら違うものを出そうとする

 


矛盾している生き物だけども

そうやって

なにもないところから

苦しさも楽しさも見つけていくのが

そうしながら日々を送っていくのが

日々、想像して創造していくのが

人間の生き方なのかもしれない

 


だから今の時代まで続いていることが

あるのかもしれない

だからさらにさらにと

"豊かさ"を求めるのかもしれない

 


ほんとはなにもないけども

そこになにか理由を探すのかもしれない

そこに意味を探すのかもしれない

考えられるから。

考えることができてしまうから。

生きる意味を、

生きる理由を、

探すのかもしれない。

 

 

豊かさを求めて

新しいものを求めて

欲を持って。

だから時々苦しんで、

時に自ら苦しい道を選んだりして、

夢をもってみたり、

目的をもってみたり、

また創り出して。

苦しみも楽しみも味わいながら

自分の道を歩んでいく選択を

しているのかもしれない

 


だから変な生き物だけども、

面白い生き物だなと思う。

 

 

 

 


子供は完成形であるのかも

なぜ大人が子どもを育てようとするのか

そう考えた人がいたからだろうか

自分の身体の一部として生まれてきたものが離れることに苦を感じたからだろうか

 


本能的に生きることを選択しているのなら

本能的に苦しみから逃れるためか

 

 

 

考えることができるから

感情に気付くことができるのだろう

喜怒哀楽が生まれるのだろう

選択ができるのだろう

選択肢がたくさんあるのだろう

感情があるから

苦も快楽や豊かさも知るのだろう、

感じるのだろう

 


今まで継がれてきたものが

苦を快楽や豊かさに変えてきたものなら

そうすることが人間の本能なのかもしれない

苦楽はいつも隣にあって

苦を感じるたびに快楽を新たに創り出すことで

死の苦しみから遠ざかり

さらに選択肢が広がり、

生き方の選択肢を増やしながら、

快に向かって生きていこうとするのか。

 


本能的に苦を快楽に変える力があるのかもしれない。

そう考えられるのが人間という生き物で。

 

 

 

五感を感じられるから自らの心を知るのか。

 

 

 

そこから

景色、もの、芸術、思想、

音楽、言葉、香り、物語、想像の世界、

暮らし

 


生きていく上で心地のよいものを

創り出すようになったのだろうか。

苦しみを乗り越えていくなかで

豊かさを求めて

苦を乗り越えたあとの快楽を求めて、

人は創造をするのか。

 

 

 

なにもないことに 意味を見つける

なにもない状態が全てある状態であるのなら、

 


その満たされているものに気付かないのなら

いつまでたっても、

満たされるものはどこにもないのかもしれない

 


どんな状況にいても満たされないものはあるわけで、

逆に

どんな状況にいても

満たされている豊かな気持ちに気付いて、

感じとることはできるわけかとも思う。

 

 

 

今を楽しむために

生まれ落ちたのかも。

今を楽しみに来たのかも。

自作自演のシナリオを描いて、

ゲームをするみたいに

こちらへ遊びにきたのかもしれないなあ。

もしかしたら。

 

 

なんにも意味なんてなくて

だからこそ

なんでもいいんだろうな 

 

 

 

苦だってなんだって

快楽だってなんだって

執着せずに

その時々で楽しんでみればいいのかも

ただ楽しんでれば

豊かさにはすぐに気付けるのかも

それがしあわせと呼ばれるものなのかも

 

 

じゃあじゃあ、やっぱり、

楽しめばいいんじゃないかな

折角、楽しむために生まれてきたんだから

 


遊びにこれたんだから

楽しまなきゃ

 

無理に苦しい方を選びたいのなら

そうすればいいんだけども、

誰も苦しい方を選びなさいなんて

言ってないんだよね。

逃げてもいいんだけど、

逃げずに向き合って苦しいところを見てるのは

自分なんだよね。

 

なんでかな、

その先にある快楽を求めてるからかな。

 

 

笑うと楽しいから人は笑うんだろうな。

 

本当は笑いも泣きも、

怒ったりも、しなくていいのに。

したいからするんだろうな。


楽しみたいから笑うし

悲しい気持ちになるから泣く

自分を主張したいから

自分を大きくみせたいから

自分を大切にしたいから

怒るのかな。

 

 

 

豊かさを求めれば求めるほど

苦しい部分も見つけるのだと思うんだ

どっちも全部あって

全部、全部、ここに。

全部あるんだけどね。

 

 

 

本当は何もしなくてもいいのかもしれない

何かやる意味を見つけているだけかもしれない

だから生きる意味を探すのかもしれない

意味はないのかも

ただ楽しみに生まれ落ちただけなんだとするとね。

もう楽しむしかないよね。

面白がるしかないよね。笑

 

 

 

なるようになってるのかもしれない。

そんな大きな義務を抱える必要なんてなくて

ただ今を受け取って楽しんでいれば

いいのかもしれない

それで十分かもしれない

 


だってさ、

何も知らないはずの子どもを

みてるだけで、まわりはしあわせになったりする

それは子どもたちがただ今を楽しんでるからかもしれない

 


大人だって

ただ楽しんで生きている人のまわりは

しあわせに包まれているんじゃないかな

 


こどもも大人もあんまり関係ないかもね

できることがさ増えてるだけかもしれない

身体がさ、育っているだけかもしれない

考える回数とか選択する回数が多くなるから

色々学んでいるのかもしれない

苦しみも快楽も沢山感じてるから

そうするもんだと思って繰り返すのかもしれない


だから楽しみも多く見つけると同時に

苦しみも多く見つけるのかもね

だから大人は色々求めるんだろうね

 


でもさ、 なんでもいいんだ

両方あるものだとしたならさ

どっちを見るかは自分で選べばいいと思うんだ。

 

もうあるものをみればいいと思うんだ

多くを求めなくても多分すぐ近くにあると思うんだけど

見えてないだけな気がするよ。 

 

 

ああ、私こうやって考えるの好きなんだよな。

 

頑張らなくても人は生きていけると思うな。

ああ、おもしろい。 楽しいなあ。

 

 

 

とかなんとか全て妄想の話にすぎないけども

これはこれで私の心地のよいものを

創れたからすごく今満たされている。 

 

 

 

今日も、一歩。

 

 

 

 

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